2009年12月17日

富山連続婦女暴行冤罪事件

富山連続婦女暴行冤罪事件(とやまれんぞくふじょぼうこうえんざいじけん)とは、2002年4月15日に起きた婦女暴行未遂容疑を始めとした2件の容疑において、2度に渡って逮捕された男性が懲役3年の刑に服した後に、本2件を含めた一連の暴行事件の真犯人が見つかった事件である。
2002年4月15日、同年3月に当時16歳の少女に暴行を働こうとしたとして、タクシー運転手の柳原浩(当時34歳、以下「甲」で表記)が婦女暴行未遂容疑で富山県警察氷見警察署に逮捕され、5月には別の少女への婦女暴行容疑により再逮捕された。逮捕のきっかけは甲が少女らの証言と似ていたこと、とされている。

任意捜査として行われた取調べが4月8日以降断続的に3日間朝から晩まで行われ、4月15日の3回目の任意捜査において、既に何が何だかわからなくなり疲れ切っていた甲は、「お前の家族も『お前がやったに違いない。どうにでもしてくれ』と言ってるぞ」などという、取り調べ警察官の真実に反する誤導により、容疑を認め、自白したものとして逮捕された。甲への逮捕状は既に準備されていた。

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この逮捕には氷見署内においても、甲の「自白」に「秘密の暴露が全くない」ことや、甲には犯行当時の明白なアリバイ(犯行時刻とされた時間帯に自宅から知人に電話をかけたというNTTの通話記録など。)が存在したこと、現場証拠である足跡が28センチであるのに対し、足が24.5センチと全く合わないことなどから、甲に対する立件は無理ではないか、という声も強かったようである。それでも捜査は強行され、富山地方検察庁が立件した。

富山地裁における裁判の席でも、甲は容疑を認め、結局自白と少女らの証言が重要視され有罪判決が下り同年11月に懲役3年が確定。甲は刑に服し2005年1月に出所した。

2009年12月01日

動物の権利とホロコースト

2003年にPETAは「あなたの皿の上のホロコースト」と題した巡業展示会を行った。この展示では強制収容所におけるユダヤ人のイメージと、殺され虐待される動物たちのイメージを重ね合わせている。この展示ではPETAの会長であるイングリッド・ニューカーク の次のような言葉が紹介されている。「強制収容所では600万人ものユダヤ人が死にました。しかし、今年60億羽のブロイラーが屠殺場で死んでいきます」

アメリカ、ウイスコンシン州の動物の権利運動家の企画「The National Primate Research Exhibition Hall」においては、その企画自体をアウシュビッツのホロコースト記念館に なぞらえ、展示の中でホロコーストとの比喩を行っている。2001年には動物の権利のサイトのmeat.org で「ホロコーストの犠牲者たち」と紹介した動物の写真により構成された 「動物のホロコースト」と題したセクションを設けた。シアトルの「The Northwest Animal Rights Network」はホロコーストの犠牲者の裸の死体が並んでいる写真と一緒に死んだ牛の 写真を並べ、中央に大きな、かぎ十字を配した広告を配布した。
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名誉毀損防止同盟(ADL)は、動物の権利の運動にホロコーストの比喩を使うのは「600万人のユダヤ人の殺害を卑小化するもの」 であるとして批判した。PETAの会長、イングリッド・ニューカークはこの運動がある人々を傷つける事になってしまったとして謝罪の意を表明した:「これは決して我々が意図した ことではないが、大変申し訳なく思う」と。
日本の近世(明治以降)における動物愛護の流れについては、名古屋大の伊勢田が指摘しているが、特に、欧米から移入された動物観が日本国内の動物観のバックボーンとなったことは特筆される。

2009年11月27日

水中の縦波である水中音波は

水中の縦波である水中音波は、光や電波に比べて減衰が小さく遠くまで伝播する。例えば周波数10kHzの音波であれば、10km以上離れた場所でも探知が可能である。しかし、同様の原理をもつレーダーと異なり、自然水を伝達媒質としているため不安定要素が多く、温度差の大きな海水の塊の場合は固体と同様の反応をみせる場合がある。

音波は、空気中よりも水中のほうが伝播速度が速い。空中における音速はおよそ340m/sであるが、水中においてはおよそ1,500m/sであり、4倍以上早く伝播する。これは遠距離における物体を探知する場合には極めて重要である。例えば、1km先にある物体を探知しようとする場合、往復2kmを音波が伝播する時間は空中では約5.9秒であるが、水中では約1.3秒である。1秒でも早く目標を発見したい軍事用途では、この差は重要となる。
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水中での音波の速度は水温、圧力、塩分濃度などで変化する。深度が深くなれば水温が下がって遅くなる。さらに深くなれば、水温はそれほど下がらないが圧力が増すので早くなる。(深海の水温、密度、塩分を参照。)海中では多くの場合、深度1,000m付近が最も水中音波の速度が遅くなり1,470m/s程度になる。音波が1,000m付近を水平方向に進む時、多少上下斜め方向に進む音波も緩やかな屈折を起こして元の1,000m付近へ曲げ戻されることになる。この効果によって、水中の音波は1,000m付近で水平方向への伝播が著しく良好となり、驚くほど遠くまで音波が届く。これはグレーデッド・光ファイバーの効果と同じである。

2009年11月13日

中世及びルネサンス音楽

グレゴリオ聖歌は中世西洋音楽およびルネサンス音楽に大きな影響を与えた。例えば、現代の記譜法はグレゴリオ聖歌のネウマ譜から直接発展したものである。聖歌を記譜するために考案された四角ネウマは、他種の音楽の記譜にも転用されたし、ある種のネウマのまとまりは、ノートルダム楽派によって提唱されたリズム・モードというリズムの組み合わせを表現するのに使用された。15世紀から16世紀にかけて、次第に丸みを帯びた音符が四角や菱形にとってかわったが、聖歌集では依然として四角ネウマが使用された。16世紀には5本目の線を追加した五線譜の使用が一般的になった。またバス記号や、シャープ、フラット、ナチュラルの臨時記号はグレゴリオ聖歌の記譜法に直接由来するものである。

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希望の橋
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グレゴリオ聖歌の旋律は、トロープスや典礼劇の音楽的素材となった。また「キリストは立てり」や「いまぞ我ら聖霊に乞わん」などの現地語の賛美歌は、翻訳テキストにグレゴリオ聖歌の旋律をあてはめたものである。グレゴリオ聖歌の即興的な和声付けであるオルガヌムにはじまり、グレゴリオ聖歌は中世からルネサンスにかけてのポリフォニーの展開にも多大な影響を及ぼした。グレゴリオ聖歌は(一部改変をされながら)「カントゥス・フィルムス」として使用されることもしばしばで、この場合聖歌の音符の連なりが和声進行を決定づけた。マリア・アンティフォナ、なかでもアルマ・レデンプトリス・マーテルは、ルネサンスの作曲家によって頻繁に編曲された。聖歌をカントゥス・フィルムスに使用することは、バロック時代になって、独立したバスラインと、それに基づくより強い和声進行が規範的になるまで主流を保った。

2009年11月02日

アバラング

最近、アバラング(Avalung。意訳すれば「雪崩呼吸器」)と呼ばれるものが雪崩地帯で用いられ始めている。これはマウスピース、可動式の弁、排気パイプ、および空気取入口で出来ている。アバラングには、胸に装着するものや、バックパックに組み込まれたものなどがある。

雪崩に埋まると、外傷による死亡を免れた被災者は、大抵の場合、窒息に苦しむこととなる。これは、被災者の周りの雪が被災者の熱により一旦融解して、その後再凍結するため、この氷の層によって酸素が被災者に向かって流れていくのが妨げられるとともに、二酸化炭素濃度が致死量まで高くなってしまうからである。

アヴァラングは、前面の大きな表面から吸気を取り込み、暖かくて二酸化炭素を含む呼気は後方へ排出する。これによって、捜索者が被災者を救出するための時間を稼ぐ事が出来る。
アロエヨーグルト
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ひとり暮らしトライ
ブロッコリー
まちぶせコンピュータ科学
モン吉コンピュータ人類
れんこんまん
安津美の日記
黄金のトランク 
花のメルヘン
環境生活情報

多くの未開地冒険家たちは、全地球測位システム(GPS)を組み込んだ、緊急用位置指示無線ビーコンあるいは個人用位置特定ビーコン(Personal Locating Beacons。「PLB」と略される)を携行している。

この装備により、捜索・救難隊に緊急信号とおおよその位置(誤差90メートル程度)を伝える事が出来るが、それは雪崩に巻き込まれてもEPIRBが故障せず、なおかつ、自分でそれを起動できれば伝えられるという事である。代替手段として、生存者がEPIRB機能の付いてないGPSから得た位置情報を、携帯電話を使って救助機関へ伝える方法もある。

2009年10月23日

累積投票制

累積投票制
複数の取締役を選任する場合、通常は1人ずつ選任決議を行うため、全員が多数派株主から選ばれる。これに対し、累積投票制で議決を行うと、少数派株主からも取締役選任の可能性が生まれる。これは、D人の取締役を選任する場合には1株につきD個の議決権を与え、その議決権を1人の候補者に集中して投票しても、数人の候補者に分散して投票してもよいとするものである。これにより、少数株主も、議決権を一部の候補者に集中することで、取締役への選任をさせることが可能となる。
アメリカでは、必ず累積投票を行わなければならない州もあるが、現在、多くの州では会社が設立文書によって選択できるようになっている。日本では、株主から請求があった場合には累積投票を行わなければならないとされているが、定款の定めによって、累積投票を行わないこととすることができる。累積投票には、少数株主の利益を反映できるというメリットがある反面、取締役が会社全体よりも党派的利益を優先してしまう、大規模公開会社では議決権の代理行使の方法が過度に複雑化するといった問題点もある。
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議決権上限制
日本・ドイツ以外では、株主の議決権の個数に上限を設けて(例えば、持株数の多い株主も5%までしか議決権を行使できない)大株主の影響力を制限することを認める国が多く、オランダ、フランス、スイスでは現在も一般的に行われている。ただし、これは少数株主の保護というよりは買収防衛策としての面が強いとされている。一方、日本と現在のドイツは1株1議決権の原則(株主平等の原則)をとっており、株式数よりも議決権を多く、又は少なく与えることはできない。

2009年06月22日

地質学者は氷河期の終息による海面上昇が

何人かの地質学者は、氷河期の終息による海面上昇が、神話に影響を与えたのだと考えている。

このタイプの最新の学説の一つで論議を呼んでいるのがライアン - ピットマン理論であり、紀元前5600年ごろ、地中海から黒海にかけて破壊的大洪水があったという黒海洪水説である。津波を含む、他の有史以前の多くの地質学上の事件が、これらの神話のベースになりうるものとして提案された。例を挙げれば、ギリシャ神話におけるデウカリオンの洪水の原話はおそらく、紀元前18世紀から15世紀のサントリーニ島の火山爆発によって起きた大津波の経験に基づくものだとされる。[2] さらに推測すれば、洪水神話は民間伝承から生じたものであり、最後の氷河期の終わり、10,000年前に海抜が大きく上昇したことが口伝として何年も伝わってきたものであろうと考えられる。

別の学説で論議を呼ぶものとしては、1つあるいは複数の隕石によって大洪水が引き起こされ、空気中や低地に大量の水蒸気を発生させた、というものである。 トルーマンの隕石の仮説を参照。

聖書を専門とする考古学者の多くは、非専門家と同様、ノアの洪水の物語を歴史的事実に基づかない神話とみなしている。 敬虔なユダヤ教徒やイスラム教徒は、キリスト教徒と同じく多くの人物が、ノアの洪水の物語を歴史的事実とみなしている。 後者のグループは、多くの文化の間の、多くの洪水伝説が、一つの共通した歴史的事件に基づいていると考えるかもしれない。

洪水地質学の支持者は、さまざまな文化の神話は、広範囲にわたった大洪水の歴史の記憶の名残であると主張する。
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湯・長崎
裁判所について
アリさんの一日
カラオケ・ばんばん

他の学者は、創世記神話は物語の後世版であり、初期メソポタミア神話(ジウスドラ叙事詩、アトラハシス叙事詩、ギルガメシュ叙事詩を含む)がベースになっていると考えている。

何人かの学者の論議によれば、創世記神話はごく初期のバビロニア神話に通じる特徴を有するが、聖書の物語に特有の様々なポイントは、ごく初期の洪水神話にも一般的にみられるものである。 聖書学者のキャンベルとオブライエンによれば、創世記の洪水神話ではヤハウェ資料による記述と祭司資料による記述の両方が、バビロニア追放(紀元前539年)以後に制作されたもので、バビロニアの物語に由来するという。

地殻変動による大洪水の痕跡を求めてこれらの説を実証する代わりに、歴史家の一部は、エジプトのナイル川、メソポタミア(現代のイラク)のチグリス・ユーフラテス川などのように、河川の洪水によって肥えた土地で初期の文明が発生したことを指摘する。 そのような人々が洪水の強烈な記憶に対し、洪水にまつわる神話を生み出して、彼らの人生にとって欠かせない部分を説明し対処しようとするのは珍しいことではない。 このような古代文明にとってはおそらく、彼らの知る限りの世界を襲った洪水は、西側先進国の基準では地域的洪水であっても文字通り惑星全体と感じられたであろう。 学者の指摘によれば、洪水など発生しそうにない地域に住む文化のほとんどが、自身の洪水神話を生み出さなかった。 人は元来の事件をさらに劇的に語るという傾向とあいまって、大部分の神話学者が必要性を感じるように、これらの論評は、地殻変動による世界を破壊するような洪水の伝説がいかに発達したかの説明となりうる。

一方では興味深いことに、ほとんどの古代文明が、土地の肥沃な川または海のそばで発達している。 次にもう少し小さな洪水が起これば、大洪水の記憶が再び呼び起こされ、次の世代に物語を伝えるきっかけにもなっただろう。 むろん、比較的洪水の少ない地域に発達した文明では、きっかけの少なさゆえに、大洪水の記憶はより早く薄れることになっただろう。

これらの神話は、多くの社会にとっても必要と思われる訓話として、タブーを破れば何が起こるかを人民に示している。 これらの神話の洪水のほぼすべての原因は、一般大衆の邪悪さのためとされ、どの文化の神話においても、数少ない生存者は、長所をよく体現した者とされるのである。

2009年06月05日

江戸氏(えどし)は日本の氏族の一つ

江戸氏(えどし)は日本の氏族の一つ。歴史上、武蔵と常陸で勢力を振るった氏族が有名である。

武蔵江戸氏は、桓武平氏秩父氏の一族。武蔵国江戸郷に本拠地を置き、のちに現在の皇居を本拠に勢力を張った一族。
常陸江戸氏は、秀郷流那珂氏の一族。常陸国那珂郡江戸郷に本拠地を置いたが、後に水戸城に移る。

平安時代の末(11世紀)に秩父重綱の四男重継が武蔵国江戸郷を相続し、「江戸四郎」を称したのが始まりとされる。重継は現在の皇居の本丸、二の丸周辺の台地城に居館を構えたという。

江戸氏は1180年に源頼朝が挙兵した時、すでに武蔵国内の最有力の武家の一角となっていた。重継の子重長は初め頼朝と対立して頼朝方の三浦氏を伐ったが、後に和解して鎌倉幕府の御家人となった。

弘長元年10月3日(1261年)、江戸氏の一族の一人であった地頭江戸長重が正嘉の飢饉による荒廃で経営が出来なくなった江戸郷前島村(現在の東京駅周辺)を北条氏得宗家に寄進してその被官となり、1315年までに得宗家から円覚寺に再寄進されている事が記録として残されている。

鎌倉幕府が滅びると、江戸氏は南北朝の騒乱において初め新田義貞に従って南朝方につき、後に北朝に帰順して鎌倉公方に仕えた。長門・高良らは畠山国清の命により矢口渡で新田義興謀殺に加わった。その後、武蔵平一揆で敗退するなどして衰退した。
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その後、庶流といわれる喜多見氏が世田谷吉良氏に仕える。やがて、主家世田谷吉良氏やさらにその主家である後北条氏が豊臣秀吉に攻められると没落した。喜多見勝忠が江戸に入府した徳川家康に仕え、世田谷喜多見に所領を与えられる。喜多見重政は将軍綱吉の寵臣として大名に列するようになり、喜多見藩を立藩する。しかし、元禄2年(1689年)2月2日に突然改易され、大名である喜多見氏は滅びた(分家の刃傷事件に連座したともされる)。

江戸氏の居館跡はのちに、長禄元年(1457年)太田道灌が江戸に封じられた後江戸城として整備された。太田氏の江戸城はやがて北条氏の支配下に置かれる。その後徳川家康が本拠地を置き、徳川幕府が代々整備し、維新後は宮城となり現在の皇居となった。

2009年05月02日

ガレオン船

ガレオン船, Galleon とは、16世紀半ば~18世紀ごろの帆船の一種である。単にガレオン・ガリオン・ガリアンなどとも表記される。戦列艦の原型にもなった。

カラックから発展した船形で、カラックに比べて幅と全長の比が1:4と長く、吃水が浅いためより速度が出るが同時に転覆もしやすくなった。カラックより小さめの船首楼と大きい1~2層の船尾楼を持ち、4~5本の帆柱を備え、1列か2列の砲列があった。

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速度も出て積載量も多く、また砲撃戦にも適したガレオン船は西欧各国でこぞって戦艦・大型商船として運用され、スペインはこれを大型化して新大陸の植民地の富を本国に護送するために使った。フランシス・ドレイクが世界一周に使用したゴールデン・ハインド号などは有名なガレオン船である。

1613年に仙台石巻で建造され、ローマ教皇のもとに遣わされたルイス・ソテロ(Luis Sotelo)および支倉常長以下の使節団を太平洋を横断してメキシコ, アカプルコへ送りとどけ、同使節団の帰途にもメキシコから日本へ連れ帰ったサン・フアン・バウティスタ号は日本で最初に建造された西洋式の大型帆船でありガレオン船であるとされているが、マニラからアカプルコへ向けての航行中に台風に遭い、房総の御宿海岸で遭難し地元民に救出されたフィリピン総督ドン・ロドリゴが、その後帰還する際使用したサン・ブエナ・ベントゥーラ号もウィリアム・アダムスによって作られている。

2009年04月18日

生類憐れみの令

生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい、生類憐令)は江戸時代の元禄期に出された多数のお触れ(法令)のことである。

「生類憐みの令」は、そのような名前の成文法として存在するものではなく、複数のお触れを総称してこのように呼ぶ。「犬」が対象とされていたかのように思われているが、実際には犬だけではなく、猫や鳥、さらには魚類・貝類・虫類などの生き物にまで及んだ。ただ、綱吉が丙戌年生まれの為、特に犬が保護された(綱吉自身犬好きで、100匹の狆犬を飼っていたという)。

一般的に「苛烈な悪法」「天下の悪法」として人々に認識されているが、江戸時代史見直しと共に徳川綱吉治世の見直し論も起こり、この令も再検討されている。
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江戸幕府第5代将軍徳川綱吉は、貞享4年(1687年)殺生を禁止する法令を制定した。

生類憐みの令が出された理由について従来、徳川綱吉が跡継ぎがないことを憂い、母桂昌院が寵愛していた隆光僧正の勧めで出したとされてきた。しかし最初の生類憐みの令が出された時期に、まだ隆光は江戸に入っていなかったため、現在では隆光の関与を否定する説が有力である。生類憐みの令が出された理由については、他に長寿祈祷のためという説もあるが、これも隆光僧正の勧めとされているため、事実とは考えにくい。

当初は「殺生を慎め」という意味があっただけのいわば精神論的法令であったのだが、違反者が減らないため、ついには御犬毛付帳制度をつけて犬を登録制度にし、また犬目付職を設けて、犬への虐待が取り締まられ、元禄9年(1696年)には犬虐待への密告者に賞金が支払われることとなった。そのため単なる精神論を越えて監視社会化してしまい、この結果、「悪法」として一般民衆からは幕府への不満が高まったものと見られる。

武士階級も一部処罰されているが、武士の処罰は下級身分の者に限られ、最高位でも微禄の旗本しか処罰されていない(もっとも下記にあるように、武士の死罪は出ている)。大身旗本や大名などは基本的に処罰の対象外であった。そのため、幕府幹部達もさほど重要な法令とは受け止めていなかったようだ。

しかしこの法令に嫌悪感を抱いた徳川御三家で水戸藩主の徳川光圀は、綱吉に上質な犬の皮を20枚(一説に50枚)送りつけるという皮肉を実行したという逸話が残る。

地方では、生類憐みの令の運用は、それほど厳重ではなかったようだ。『鸚鵡籠中記』を書いた尾張藩士の朝日重章は、魚釣りや投網打を好み、綱吉の死とともに禁令が消滅するまでのあいだだけでも、禁を犯して76回も漁場へ通いつめ、「殺生」を重ねていた。大っぴらにさえしなければ、魚釣りぐらいの自由はあったらしい[1]。また、長崎では、もともと豚や鶏などを料理に使うことが多く、生類憐みの令はなかなか徹底しなかったようだ。長崎の町年寄りは、元禄5年(1692年)および元禄7年(1694年)に、長崎では殺生禁止が徹底していないので今後は下々の者に至るまで遵守せよ、という内容の通達を出しているが、その通達の中でも、長崎にいる唐人とオランダ人については例外として豚や鶏などを食すことを認めていた。

この法令に熱心だった幕閣は側用人であり、中でも喜多見重政は、綱吉が中野・四谷・大久保に大規模な犬小屋を建てたことに追従して、自領喜多見に犬小屋を創設している。この喜多見をはじめとする側用人たちが法令のそもそもの意味を歪めて発令したと主張する者もいる。

徳川家宣(綱吉の甥で、養子となる)は将軍後見職に就任した際、綱吉に生類憐みの令の即時廃止を要求したといわれている。継嗣がいなかったとは言え、綱吉はこの廃止要求を拒絶し、死の間際にも「生類憐みの令だけは世に残してくれ」と告げた。が、綱吉の死後、宝永6年(1709年)、新井白石が6代将軍家宣の補佐役となると綱吉の葬式も終えぬうちに真っ先にこの法令は廃止された。この時、江戸市民の中にはこれまでのお返しとばかりに犬を蹴飛ばしたりしていじめる者もいたという。以降、江戸庶民の間に猪や豚などの肉食が急速に広まり、滋養目的の「薬喰い」から、肉食そのものを楽しむ方向へと変化し、現在まで続く獣肉(じゅうにく)料理専門店もこの時期(1710年代)に現れている。

この「生類憐れみの令」は、幕府の権威の失墜につながらないよう、「徳川禁令考」など、幕府やその関係者が編纂した法令集からは意図的に削除されているともいわれている。

元禄の大飢饉と憐れみの令
元禄の大飢饉は1695年~1696年(元禄8年~9年)に東北を中心とする東北地方を襲った冷害で、収穫が平年の3割しかなく、津軽藩では領民の3分の1に相当する5万以上の死者を出したという。飢饉の様子を記録した『耳目心痛記』(じもくしんつうき)によると、「道を往けば、餓死者が野ざらしになり、村では死に絶えた家が続き日増しに増えた。肉親が死んでも弔う体力もなく屍骸は放置される。11月になると積雪のため草木の根を取る事もできず被害は増した。生き残った家庭でも一家心中や子殺しが続いた」という。

そして生類憐れみの令はこれらの惨状に悲惨さを増したという。それは、鳥獣を食べる為に獲ることも許されず、害獣の駆除もできない。さらに長く続いた生類憐れみの令のために、鳥も獣も人を恐れることがないから、飢餓で彷徨する人は息のあるうちにさえカラスやトビに襲われ、倒れれば野犬の餌食となったという。この法に対する「万事・万物が逆で道も法もない」との批判は、このような事情を背景にした言葉であった。

この飢饉は、全国的にも影響を及ぼし、但馬出石藩では農民による打ちこわしが起き米価は騰貴した。ところがこの様な飢饉の中でも、幕府は8万匹の野犬を中野犬小屋に収容し、犬一匹につき一日に白米3合、味噌50匁(約187グラム)、干しイワシ一合を与え、江戸町民の間では米価騰貴の中での幕府の犬への厚い待遇に対して、憤りが高まった。

見直し論
しかし、この生類憐みの令についても正史に対する批判としての見直し論がある。

見直し論の立場に立つ山室恭子は、「生類憐みの令の目的は、綱吉の時代にはまだ残っていた戦国時代の荒々しい風潮を一掃することであった」と推測している。ただ、意外性の強いお触れであったために江戸の人々は次々に裏をかいておちょくり、そのため幕府側も次々に詳細なお触れで対抗するという、ある意味で不幸なループに陥り、そのため、実質をはるかに上回る「面白い話」として後世に伝えられてしまったのではないか、という[3]。また、六代将軍家宣や儒学思想に基づく新井白石らの政治をことさらに良く見せようとする意図もあったと推測する。

また当時のキリシタンは肉食を推進していた為、この令の発布によって動物殺生を発見させ、隠れキリシタンの摘発を促進したという説もある。この説を主張する者によると「生類憐みの令は、些細な殺生を禁じ、違反者に対して厳罰で報いた悪法である」とする確かな根拠は、実は確認されていないという。

当時の処罰記録の調査によると、ごく少数の武家階級の生類憐みの令違反に対しては厳罰が下された事例も発見できるものの、それらの多くは生類憐みの令に違反したためというよりは、お触れに違反したためという、いわば「反逆罪」的な要素をもっての厳罰であるという解釈がある。町民階級などに至っては、生類憐みの令違反で厳罰に処された事例は少数であるとする。また、徳川綱吉の側用人であった柳沢吉保の日記には、生類憐みの令に関する記述があまりなく、重要な法令とは受け止められていなかった可能性が強いのではないかと推論する。しかし、「生類憐れみの令を100年守ること」を綱吉はわざわざ遺言しており、重要でないのなら、綱吉の遺言もある筈もなく、わざわざ儒学者の白石が廃止を宣言する必要もなかった筈である。

また、厳罰説を正しいと仮定した上での弁護論もある。生類憐みの令を処罰された側から見ると悪法に見えるが、例えば、当時、まだ戦国時代の「人を殺して出世する(賃金を得る)」がごとき風習が未だ根強く、病人や牛馬などを山野に捨てる風習や、宿で旅人が病気になると追い出されるなどの悪習などを改めるための法律であったと考えれば、厳罰を以って処すことの是非を軽々しく評価はできない。尚、生類憐みの令がきっかけで庶民にも犬を飼う習慣が出来たとする説も存在する。

徳川綱吉の治世については、前期は善政を行ったが、その後期は「生類憐みの令」などが主な理由となって、評価は低い。しかしながら、網野善彦らに端を発する江戸時代見直しの流れの中で、徳川綱吉の再評価をする動きはある。

年表
先述の通り生類憐れみの令は複数のお触れに及ぶが、その流れは以下の通り。

貞享4年(1687年)2月27日:魚鳥類食料禁止(鶏と亀と貝類も含む)
貞享4年(1687年)4月9日:病気の馬遺棄者が遠流に処される(武蔵国村民10人)
貞享4年(1687年)4月30日:持筒頭下役人が鳩に投石したため遠慮処分
貞享4年(1687年)6月26日:旗本の秋田采女季品(中奥小姓秋田淡路守季久の嫡男)が吹矢で燕を撃ったため、代理として同家家臣多々越甚大夫が死罪
元禄元年(1688年)2月1日:屋号の鶴屋および鶴の紋は禁止される
元禄元年(1688年)5月29日:旗本大類久高が法令違反を理由に処罰される
元禄元年(1688年)10月3日:鳥が巣を作った木を切り、武蔵国新羽村の村民が処罰される
元禄2年(1689年)2月27日:病馬を捨てたとして陪臣14名・農民25名が神津島へ流罪
元禄2年(1689年)10月4日:評定所の前で犬が争い、死んだため旗本坂井政直が閉門
元禄4年(1691年)10月24日:犬・猫・鼠に芸を覚えさせて見世物にすることを禁止
元禄8年(1695年)5月23日:大久保・四谷に犬小屋が作られる。住民は強制的に立ち退き
元禄8年(1695年)10月16日:法令違反として大阪与力はじめ11人が切腹。子は流罪
元禄8年(1695年)10月29日:元禄の大飢饉(1695年~1696年)の最中、中野の犬小屋が完成。16万坪。犬の食費は年間9万8千両。住民は強制的に立ち退き。
元禄9年(1696年)8月6日:犬殺しを密告した者に賞金30両と布告。
元禄13年(1700年)7月24日:活魚の売買禁止

歴史上での生類保護政策
東アジア世界では、仏教の思想の下、いくつかの生類保護政策がとられており、これらの「生類憐みの令」への影響を指摘する学説がある。

5世紀頃の中国では、大乗仏教の偽経『梵綱経』の第3に食肉戒より、動物の命を絶つことを理由に、肉食を完全に禁止している。また、中国、宋代、徽宗は、1102年、犬肉食禁止令を出した。

また、日本においても仏教の影響から7世紀後半以降に殺傷を禁ずる法令が散見される。

『日本書紀』(675年、691年)
『続日本紀』(732年から794年の計11回)
日本だけでなく、同じく大乗仏教の影響が強かった朝鮮半島においても、同様の法令が発布されている。

新羅: 動物殺傷禁止令(529年、711年)
百済: 殺傷禁止令(狩猟や鷹の飼育も禁止、漁民には、魚網を焼き捨てさせている)(599年)
高麗: 屠殺禁止令(968年、998年)